
張保皐の幼年時代
張保皐は、清海鎮(現在の莞島)で780年代後半に生まれたと推定される。彼は、体格が大きくて逞しく、弓と槍など武芸に優れていた

唐での活躍(武寧軍中小将時代)
唐に渡った張保皐は、徐州の武寧軍という軍隊に入り、いくつかの戦いで功を立て、30歳(819年)には兵士千人以上を率いる軍中小将の職まで上った。

唐での活動(赤山法華院の設立)
武寧軍中小将の職を辞した張保皐は山東半島赤山浦に赤山法華院を建て、様々な活動をしながら在唐新羅人社会に影響を及ぼした。 なかでも日本の僧侶・円仁は、ここ法華院に滞在しながら張保皐大使に手紙を送り本人の無事帰国を頼んだ。これは、張保皐の国際的な存在感を表す端的な例だといえる。

海賊による良民の拉致
9世紀初め、海は海賊の天国だった。海賊は当時の政局不安と国境のずさんな警備に乗じて新羅の沿岸をよく略奪した。唐で武寧軍中小将として活躍した張保皐は、このような新羅の惨状を見て衝撃を受けて、新羅に戻り海賊を打ち払って海道を開拓すると決心した。

興徳王謁見と海賊掃討
唐から帰国した張保皐は、興徳王を謁見し、軍人1万人が引率できる清海鎮を設けるよう要請して許可を得て、その大使に任命された。その後、彼は、新羅と唐の海上交通路にいた海賊を掃討し、群小海上勢力の統合、新羅房に住む在唐新羅人のネットワーク構築、海上貿易圏の確保など、短時間に組織的な勢力として成長した。

清海鎮の設置 / 東アジア海上貿易基地‘清海鎮’
清海鎮は、新羅興徳王3年(828年)に設置された。 張保皐は‘海を治める者が世界を支配する’という信念の下で清海鎮本営を中心に韓民族の気性で海上を開拓した。彼は、韓国と中国、日本を結ぶ壮大な海上航路を開拓し、清海鎮を中心に中国と日本を結ぶ仲介貿易をし、イスラム諸国とも貿易をした、アジア初の民間企業家であると同時に、世界的な貿易王となった。

張保皐船団の文化交流活動
中国と日本にも拠点を確保した清海鎮は、韓国史上例のない日中韓を結ぶ海外貿易活動の本拠地となった。張保皐船団は、中国南部地域まで進出してアラビア商人とも貿易をし、イスラムの陶磁器やガラス製品などを新羅と日本に供給したこともある。これらの貿易品は張保皐船団によって運搬され、莫大な利益を生み出した。張保皐は、このように北東アジアの海を牛耳る海上王だったのだ。

新羅王位争奪戦と張保皐暗殺
清海鎮設置後東アジアの海上世界を席巻した張保皐は、新羅王室の王位継承をめぐる争いに巻き込まれることになった。 839年張保皐は、慶州に軍人5千人を送り金祐徵の政敵を撃破し、金祐徵が王位(神武王)に着くのに最大の功臣となった。 そこで、金陽をはじめとする慶州貴族の不安は露骨的な敵対意識に変わった。 とうとう金陽は一時期張保皐の部下だった閻長を張保皐に送った。張保皐は、帰ってきた部下の閻長を嬉しく迎え入れ宴会を開いた。ところが、宴会が盛り上がったところで閻長は刀を抜き出し張保皐を殺害した。841年のことだった。